清正公と日蓮宗
清正公は熱心な法華経の信者であった。
これは母伊都女の感化であって、伊都女は娘時代からの日蓮宗の信者であったので、清正公は生れる前からの日蓮宗の影響を受けていたといえる。
母と二人だけの貧しい生活の中に、母の信仰する姿を見て、信仰というものを成長と共に強く持ち始めた。
更に津島の日蓮宗妙延寺住職日順大徳の教化も偉大な物であって、清正公の崇高な人格は此の日順大徳によってつちかわれたものといっても過言ではなかろう。
秀吉に仕え戦場にて生死の間にあるとき、常に頭には南無妙法蓮華経の題目をいただき、先ず口にでるのは法華経の題目であった。
清正公は純情一徹で、戦場では何者もおそれず、手柄をたてれば法華経の力と信じ、ますます信仰を深めた。
清正公は二十五才の時に難波に本妙寺を建立し父の菩提をとむらった。後に肥後の領主となって熊本城下に移した。
更に本妙寺をはじめ、妙法蓮華経の五文字を冠した五つの寺を建立した。則ち越後水俣の法華寺、豊後鶴崎の法心寺、長崎の本蓮寺、肥前大村の本経寺がそれである。
この他京都の本圀寺の三十番神堂、東京池上本門寺の石段此経難持坂また神社も造営され、名古屋市では熱田神宮の鎮皇門の造営があるが焼失して今はない。
このようにして法華経の信仰者として祀られ、日蓮宗信者はもとより広く一般にもあがめられているのも信仰により植えつけられた清正公の崇高なる人格による所以であろう。
■加藤肥後候旧里碑
この碑は、もとは隣の中村公園の西方大字高畑にある八幡社境内に建立されたものであるが、明治三年、この妙行寺が清正公生誕地として確実視されるに及んでここに移された。
文化七年(1810年)冬十月の建立で、藩の儒臣秦鼎の発願で、文を撰し、丹羽盤恒子が書している。